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失われた機能を求めて

2015年9月号

片岡佳子

秋の味覚と言えば松茸だが、手ごろな外国産は輸送距離の長さや洗浄のためにその香りが乏しいとされる。鼻を近づけて、少しでも香りを感じようと、必死に空気を吸った経験のある方も多いのではないだろうか。しかし残念なことに、ヒトの嗅覚は哺乳類の中でもあまり鋭い方ではないようだ。

 香りは、におい物質が鼻の粘膜にある嗅覚受容体と呼ばれるにおいセンサーと結合して感知される。におい物質はそれを感知する複数の嗅覚受容体の組み合わせによって区別されるため、嗅覚受容体の数が多いほど多くの匂いを嗅ぎ分けることができることになる。これまでの研究によると、ゲノムの中におけるこの嗅覚受容体を受け持つ遺伝子の数は、ヒトでは約400個と、イヌ約800個、ラット約1200個、アフリカゾウの約2000個(判明している中では最も多い)を大きく下回っている。組み合わせの多様性を考えると、ヒトが嗅覚から得ている情報は、イヌやゾウと比べて格段に少ないといえる。

 ではヒトは何故、嗅覚がさほど優れていないのだろうか?元来、哺乳類の遠い祖先は夜行性であり、視覚ではなくほぼ嗅覚に頼って生きてきたとされる。今でもほとんどの哺乳類は色盲で、昼間の活動に重要な色彩を判別する能力に乏しい。しかし、ヒトとその仲間だけが、進化の過程において突然変異などによって多様な色彩を見分ける視覚を得たことがわかっている。昼行性になり、視覚によって多くの外部情報が得られるようになったヒトとその仲間は、嗅覚機能を他の動物よりも早く退化させたと考えられている。実際に、嗅覚受容体遺伝子全体に対する「退化して機能を失った遺伝子(偽遺伝子)」の占める割合をみると、ヒトは52%に上っており、イヌ(25%)やラット(31%)など他の哺乳類と比べて高くなっている。同様に、イルカなどハクジラの仲間は偽遺伝子の割合が90%にも上るが、これも海の中で聴覚が非常に発達し、生存の上での嗅覚の重要性が下がった結果だと考えられている(※1)。

 ある機能が進化した結果、環境に応じて重要性の低い機能が失われる例は実生活でも枚挙に暇がない。電子マネーが普及しこのところ現金を持ち歩かなくなったという人も多いのではないか。一方で、非常時など環境が変れば、現金の重要性は高いままだ。

 ちなみに、昨年発表された研究によると、嗅覚機能に低下が見られた高齢者が5年以内に死亡する確率は、通常の嗅覚を維持する同世代と比べて約3倍にも上るらしい。ある程度以上の嗅覚が、ヒトの生存に不可欠ということだろうか?(※2)松茸の香りを嗅ぎながら、退化させてきた機能の重要性を見直しても良さそうだ。

1) クジラ類は味覚もほとんど失っている。
2) 身体機能の低下が嗅覚に顕著に現れるという説が有力。

※組織名、職名は掲載当時のものです。

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Writer’s Profile

片岡佳子

片岡佳子Keiko Kataoka

金融デジタル企画一部
上級研究員
専門:金融関連ソリューション企画

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