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求む!!労働経済学の専門家

2014年10月号

金融ITイノベーション研究部 部長 井上哲也

米英日の各国は、ともに労働市場の状況が金融政策の命運を握る状況にある。現在の労働市場は人口動態等の長期的要因に加え、金融危機の後遺症の影響があるだけに、正しい理解は容易でない。各中央銀行は、政策を慎重に変更しつつ、労働市場の反応をもとに微修正するアプローチが求められる。

労働市場次第の政策運営

 中央銀行が、景気判断に基づいて金融政策を決めるのは当然であり、労働市場に対する見方は景気判断の主要な部分を占めるだけに、それが政策運営に影響を与えるのも普通のことである。それでも、先進国の金融政策にとって労働市場の状況が同時に非常に重要になるのは、先進国がインフレに悩まされていた1970年代以来という印象もあり、だからこそ今回のジャクソンホールでのコンファレンスがこのテーマを取上げたのだろう。

 物価安定と最大雇用の実現という2つの目標の達成を求められる米国の連邦準備制度理事会(FRB)にとって、「量的緩和」を終えて利上げに進むべきか否かは、イエレン議長が8月の講演でも強調したように、雇用の十分な回復が確認できるかどうかにかかっている。欧州大陸諸国に先駆けて景気回復が進む英国でも、イングランド銀行(BOE)がゼロ金利政策などの強力な金融緩和を継続すべきかどうかは、8月の物価安定報告が指摘した賃金上昇の抑制が継続するかどうかにかかっている。もちろん我が国でも、日本銀行が昨年から実施している「量的質的金融緩和」によって物価目標を安定的に達成するためには、円安のような外部環境頼みではなく、黒田総裁が期待するように、景気回復に伴って賃金が順調に上昇していくことが不可欠である。

労働市場の分析の難しさ

 もっとも、先進国の中央銀行にとっても、各国の労働市場の現状を的確に捉えることは決して簡単ではない。もちろん、マクロ経済の分析は中央銀行の日常業務であり、多くの関係者が労働市場の情報や分析に日々接していることも言うまでもない。ただ、労働市場を左右する我々労働者の行動は、短期的な需給や賃金だけでなく、社会の変化や人口動態といった長期の要因にも少なからぬ影響を受ける。従って、中央銀行が通常行う経済分析と時間的視野の面で必ずしもフィットしない要因を考慮する必要があるという意味で、労働市場の分析には難しさが伴う。

 例えば、日本では人手不足に関する報道が目立つが、現時点では非製造業の特定の分野に集中しているように見える。それは財政刺激の効果を含む内需主導という今回の景気拡大を象徴する一方で、我々の労働条件に関する嗜好が変化しつつあることの結果かもしれない。いずれの理由が支配的であるかによって、人手不足やそれに伴う賃金上昇が経済全体に広がるかどうかが左右される面があるだけに、重要だが解釈の難しい問題である。

 しかし、現在の米英で労働市場の理解を難しくしているのが、金融危機の影響であることは言うまでもなかろう。米国では、新規雇用の増加が月平均で20万人を大きく超え、失業率も「完全雇用」とも言える5%台への低下が間近に迫っている。しかし、金融危機によって10%台に跳ね上がった失業率をここまで改善する上では、結局のところ、多くの人々が就労を断念して労働市場を離れたこと-労働参加率が低下したこと-による効果が大きかった。フルタイムで働きたいのにパート労働に甘んじている人々も含めると、失業率は12.2%(7月)にも上昇することも考えれば、労働指標の改善を額面通り受け止めて良いかという疑問も湧く。賃金についても、イエレン議長が先の講演で認めたように、景気と雇用が回復しているほどには上昇していない。講演では、景気後退が深刻であった時期にも、企業経営者が労働者の抵抗によって賃下げができなかった分を、景気が回復した現在になって賃上げの抑制で取り返そうとしている可能性などが指摘されたが、いずれにせよ、米国経済にとって最も重要なエンジンである個人消費にどう影響するのか、賃金発のインフレの可能性をどう見れば良いかといった難しい問題を提起している。

 英国の労働市場は、BOEの分析を見る限り、米国以上に理解しにくい状況にある。英国でも雇用が増加し失業率が3.0%(7月)まで低下しただけでなく、労働参加率も順調に回復したのに、賃金上昇率は足許にかけて減速し、前四半期の平均時給は減少した。同時に高齢者の労働参加が高まり、非熟練職種の雇用が増加している。これらを整合的に理解する仮説の一つは、金融危機による貯蓄の目減りなどを受けて、高齢者が老後の生活を確保するために労働市場に参入したり、長期失業者が非熟練の雇用機会を受容したりする姿である。賃金よりも雇用の確保を優先する「日本型」の調整が英国で進行しているとすればそれ自体興味深いが、いずれにせよ、景気やインフレを考える上で米国と同様な難問を提起している。

石橋を叩いて進むアプローチ

 米英日の労働市場がこのような状況にある以上、それを正しく理解することだけが目的なのであれば、幅広い情報を集めつつ「もう少し様子を見る」のが良さそうである。実際、先にみた要素の中には、米国における就業の断念や英国における非熟練雇用の増加のように、金融危機からの時間が経過していくにつれて徐々に減衰し、もとの姿に戻ることが期待できるものもある。日本に関しても、景気が本当に力強く拡大すれば、人手不足のマクロ的な意味合いは極めて重要になろう。こうして、構造的ないし金融危機の影響としての要因が剥落していけば、景気判断もそれに基づく政策運営もはるかにシンプルなものとなろう。

 しかし、強力な金融緩和を続けるにせよ、それを修正して利上げに向かうにせよ、的確な政策運営を求められる中央銀行には、残念ながら、労働市場の調整を静かに見守り続ける選択肢はないようだ。なぜなら、米英の場合、労働市場の様々に複雑な要素がなくなると、極めて低い失業率とか加速的な賃金調整といった要素だけが残されるからである。日本では、構造的な要素が剥落すると、逆に物価目標の達成にリスクが生じるかもしれない。

 結局のところ、米英日の中央銀行は慎重に政策を変更しながら、労働市場がどのような反応を示すか細心の注意を払うことで、労働市場に関する理解を少しずつ改善しながら、これに基づいて政策を修正していく戦略を取らざるを得ない。それは、危機が深刻であった際に大規模な資産買入れを実行するようなスペクタクルに富んだものとは異なり、石橋を叩いてその響きに耳を澄ましながらゆっくり前進する地味なアプローチではあるが、限られた情報や分析の下で的確な政策運営を目指す上での常道に戻るだけのことでもある。

※組織名、職名は掲載当時のものです。

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Writer’s Profile

井上哲也Tetsuya Inoue

金融イノベーション研究部
主席研究員
専門:中央銀行、国際金融

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