1. HOME
  2. 刊行物
  3. 金融ITフォーカス
  4. カテゴリから探す
  5. 金融市場
  6. 忘れられない話:米国の労働市場と金融政策

忘れられない話:米国の労働市場と金融政策

2011年8月号

金融ITイノベーション研究部 主席研究員 井上哲也

FRBの2つの政策目標のうち、「最大雇用の達成」は過去から現在の失業の動向に左右される。特に今回の金融危機後は、米国内で累計800万人もの失業者が生じ、その解消がなかなか進捗しないという異例な事態であるだけに、FRBは過去に生じた失業を決して忘れることはできず、持続力ある政策を模索することが求められる。

連邦準備制度の“dual mandate”

 米国の連邦準備法の第2条Aは、同国の中央銀行に当たる連邦準備制度(FRB)の目的を、「物価安定」と「最大雇用」の達成であると定めている。この条項は、実はこれら以外に「長期金利の安定」という大変興味深い目的も掲げているが、通常は主要な目的として前者2つが意識され、しばしば“dual mandate”と呼ばれる。
  「物価安定」や「最大雇用」が各々何を意味するかは、連邦準備法には具体的に書かれていないし、経済構造の変化によって変化していく筋合いのものであるだけに、法律に書き込むことは適切ではなかろう。しかし、漠然とした概念のままでは、FRBが目標を達成しているかどうかを市場や国民は判断できないし、達成するために金融政策を発動したり止めたりすることを巡る議論に不要な混乱を招くことになってしまう。
 このため、FRBは議長の講演や議会証言、金融政策を決める連邦公開市場操作委員会(FOMC)の議事要旨等を通じて、FRBとしての「物価安定」や「最大雇用」のとらえ方を常々発信してきている。これらは少なくとも市場との間では共通の理解になっているし、より広く政治家や国民のとらえ方と対比しても、そう大きな違和感をもたれることはないように見える。
 具体的には、「物価安定」とは、消費者物価指数(CPIないしPCE)のコア(エネルギーと食料品の価格を除いたもの)の上昇率が1~2%に止まることであり、「最大雇用」とは、いわゆる完全雇用の状況にあることである。後者については、民間エコノミストの間で意見が異なるが、少なくともFRBは米国の失業率が5.5%付近であることが、完全雇用に相当すると見ているようだ。

“dual mandate”の時間軸

 実は、“dual mandate”として並列的に掲げられているこれらの目標は、時間軸の点で大きな違いを持っている。「物価安定」が対象としているのは、物価上昇率、すなわち物価の時間当たりの変動率である。従って、「物価安定」は時間に関してマイナス1次のディメンションを持っている。これに対し、「最大雇用」が対象としているのは失業率であって、ここには時間の要素は直接的には入り込んでこない。すなわち、「最大雇用」は時間に関してゼロ次のディメンションを持っている。
 このように、技術的には興味深いが、一見すると政策運営には影響を与えそうにない相違が、実は現在ないし将来にわたって大きな意味合いを持ちうる。なぜなら、やや図式化して言えば、「物価安定」は過去のことを振り返る必要がないのに対して、「最大雇用」は過去からの累積を考慮する必要が生じやすいからである。
 すなわち、「物価安定」を物価上昇率で捉える場合、仮に1年前まで強烈なインフレであったとしても、深刻なデフレであったとしても、その後の物価指数の上昇率さえ緩やかなインフレの範囲にあれば、それでも目標は達成されていることになる。これに対し、「最大雇用」を失業率で計る場合、仮に過去1年間に雇用の増加が多少進んだとしても、それ以前の失業者と労働力人口の水準によって、目標達成の如何が大きく左右される訳である。

累積した失業

 実際には、大幅なインフレやデフレが生じた後に急に物価が安定することがまれである以上に、労働市場が改善を続けてもなお「最大雇用」にほど遠いことはまれであるだけに、政策運営の上で2つのマンデートの相違が焦点になることは殆どなかったかもしれない。
 しかし、金融危機後の現在は、この点で未知の領域に入っている。つまり、物価上昇率の方は、昨年には多少減速する局面もあったが、現在では消費者物価(コア)の上昇率はCPIでみてもPCEでみても1%台前半で安定している。このように、「物価安定」の達成には問題がない。これに対して失業率は、今年初めの数ヶ月は徐々に改善する動きも見られたが、今なお9%近い水準に止まっている。つまり、「完全雇用」の目標達成にはほど遠い状況にある。これは言うまでもなく、金融危機後に発生した累計800万人もの大規模な失業者のうち、職を得ることができたのは一部分だけで、今なお600万人近い失業者が存在するという厳しい現実を反映している。広く知られているように、今回の失業者の動向は、規模の面でも回復の遅さの面でも、1980年代以降の様々な景気後退局面と比べて際立っている。

忘れられない話

 こうして、FRBが“dual mandate”の一方の柱である「最大雇用」を達成する上では、金融危機後に生じた大量の失業者を「過去のこと」として忘れてしまうことは決してできず、目標達成に目途がつくまで常に向き合わなければならないという試練に直面し続ける。
 FRBは労働市場に直接に介入する立場にないだけでなく、そうした政策手段を持たない以上、最終的には金融政策を通じて経済活動を活発化させ、結果として雇用が増えることを期待する以外にはない。また、これだけ多くの失業が一気に解消することが考えにくいとすれば、FRBにとって、長期間にわたって効果を生じ続けるような政策手段の魅力が高まる。
 実は、6月末で終了したとされるいわゆる“QE2”(FRBによる6000億ドルの国債買入れ)も、持続的な効果を持ちうる政策手段の一つである。なぜなら、Bernanke議長が再三強調してきた通り、FRBとしては、“QE2”は国債買い入れの実行というフローの取引ではなく、大量の国債がFRBのバランスシートに残り続けることで市場関係者によるポートフォリオの組み直しを促すことによって、金融資産の相対価格を変化させ、最終的には消費や投資を促すことを企図するものであったからである。ただ、時間とともにマクロの金融資産の構成や規模が変化していくことも不可避であるだけに、“QE2”の持続効果も永久に残るわけではない。
 FRBはいずれかの段階でより長持ちする政策を新たに考えなければならないかもしれない。こうして、残念ながら、FRBが過去を忘れられる日は簡単には来ないようだ。

※組織名、職名は掲載当時のものです。

印刷用PDF

Writer’s Profile

井上哲也Tetsuya Inoue

金融イノベーション研究部
主席研究員
専門:中央銀行、国際金融

この執筆者の他の記事

井上哲也の他の記事一覧

このページを見た人はこんなページも見ています