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フィリップス曲線分析の陥穽

2017年07月27日

<要旨>
人手不足が深刻化するなかで、あるいは需給ギャップが改善するなかでも、賃金、物価の上昇率が予想されたほどには高まらないことが、一種の謎(パズル)とされている。これは日本に限らず、世界全体でみられる現象である。この議論の背景には、需給ギャップと物価上昇率等との関係を示すフィリップス曲線がイメージされていることが多い。しかし実際には、「賃金、物価は様々な要因によって決まる」のである。その中でも、足もとの賃金・物価上昇率の高まりを妨げているのは、成長期待の低下であろう。当面、人手不足がさらに進み、需給ギャップが一段と改善するとしても、成長期待が容易に高まらない環境の下では、賃金・物価上昇率が急速に高まるといった事態は想定し難く、物価上昇率が大方の予想を下振れ続ける可能性が高いと見ておきたい。

賃金、物価の謎(パズル)とフィリップス曲線

人手不足が深刻化するなかで、あるいは需給ギャップ(一般的には(現実のGDP-潜在GDP)÷潜在GDP)が改善するなかでも、賃金、物価の上昇率が予想されたほどには高まらないことが、一種の謎(パズル)とされている。これは日本に限らず、世界全体でみられる現象である。この際、「予想されたほど」の背景には、フィリップス曲線がイメージされていることが多い。フィリップス曲線とは、①失業率に代表される労働需給関係あるいは需給ギャップと、②賃金上昇率あるいは物価上昇率との関係を示す一種の経験則である。失業率が低下する、あるいは需給ギャップが改善するほど、賃金上昇率あるいは物価上昇率は高まる傾向がある。

物価、賃金の見通しが議論される際に、このフィリップス曲線が注目される傾向が強い背景には、「賃金、物価は需給関係で決まる」との認識が一般的であることが挙げられるだろう。しかし実際には、「賃金、物価は様々な要因によって決まる」のである。その他の要因に大きな変化がない場合にのみ、需給関係と賃金・物価との間に比較的安定した関係が観測され、フィリップス曲線分析による物価、賃金の予測が有効となるに過ぎないのである。

フィリップス曲線分析の有効性はそもそも限定的

フィリップス曲線分析が重視される傾向が強い背景には、「全ての価格は需要曲線と供給曲線の交点で決まる」との認識があるように思われる。それは正しいのであるが、それと「価格が需給関係のみで決まる」というのは同じことではない。賃金を例に挙げれば、労働需給が逼迫する際には、企業は同じ数の雇用者を確保するためにより高い賃金を支払うようになる。その結果、縦軸を賃金(あるいは賃金上昇率)、横軸を雇用者数とすれば、右下がりの「労働需要曲線」は上方にシフトし、右上がりの「労働供給曲線」との交点で定まる賃金(賃金上昇率)は上昇することになる。つまり労働需給の変化は、「労働需要曲線」あるいは「労働供給曲線」をシフトさせ、その交点で定まる賃金(あるいは賃金上昇率)を変化させるが、両者の変化させる要因はその他にも多くあり、労働需給の変化はその一つに過ぎないのである。

実際には「賃金、物価は様々な要因によって決まる」、つまり多数次元で賃金、物価が決定されているのを、需給関係と賃金・物価の関係という2次元の世界に無理やり落とし込んでいるのが、「フィリップス曲線」である。フィリップス曲線がシフトした、あるいはフィリップス曲線の傾きが変化したように見えるのは、その他の重要な要因が変化したからに過ぎないのである。この点から、フィリップス曲線分析による物価、賃金の予測の有効性は、本来、かなり限定的であると考えるべきだろう。

フィリップス曲線の確認

1983年以降の需給ギャップと消費者物価(除く生鮮食品・エネルギー)の前年比(1年遅れ)との関係をプロットすると(図表1)、両者は比較的高い相関を示していることが確認できる。トレンド線は、需給ギャップ((現実のGDP-潜在GDP)÷潜在GDP)が1%ポイント改善すると、物価上昇率は0.4%ポイント程度高まるという、この期間の平均的な姿を示している。また、需給ギャップがゼロである時の物価上昇率は+0.7%程度である。ゼロ%が需給ギャップの概ね中長期の平均値であると見なせば、+0.7%程度がこの期間の平均的な物価上昇率の水準であり、また中長期の予想物価上昇率、あるいは物価安定の状態と考えることができるだろう。80年代初頭以降のディスインフレ期からマイルドデフレ期を含む平均的な物価の姿は、このようなものである。


成長期待の低下がフィリップス曲線を下方にシフトさせた

過去数年、需給ギャップが概ね中立的な水準を維持する中でも、消費者物価(除く生鮮食品・エネルギー)の前年比が+0.7%程度を安定的に維持できなかった背景には、フィリップス曲線が一段と下方のシフトした可能性が考えられる。さらにそれをもたらした要因としては、成長期待の低下が最も重要であったと自身は考えている。成長期待の低下は、足もとだけに限らず、90年代以降のトレンドと考えられる。

先行きの成長期待の低下は、企業にとって、将来に渡る負担となる固定費の抑制のインセンティブを高める。その結果、目先の景気堅調への対応として、非正規社員、パートタイム労働者などの雇用比率を高める一方、正規社員の基本給は極力抑制するのである。それが正規社員を中心に賃上げに対する労働者の期待を抑制し、中長期の予想物価上昇率を押し下げたものと考えられる。これが、フィリップス曲線が下方にシフトした背景に他ならず、その結果、「賃金、物価の上昇率が予想されたほどには高まらない」との議論を巻き起こすに至っているのである。

スラック(たるみ)論の問題点

こうした見方に対して、賃金・物価上昇率が高まらないのは、労働需給あるいは需給ギャップが未だ十分に逼迫していない、つまりスラック(たるみ)があるためであり、臨界点を超えれば賃金・物価上昇率は加速的に高まる、との議論も聞かれるところである。企業は深刻な人手不足や賃金上昇への対応から、生産効率を高める努力をしているため、その生産性向上による単位労働コストの抑制が短期的には物価上昇を抑制するが、そうした努力もいずれ限界に達し、スラックが解消すると、企業は賃金上昇分を価格転嫁し始め、物価上昇率が急速に高まる局面を迎える、というものである。

しかし、「働き方改革と人手不足深刻化の功罪(2017年7月26日付)」でも既に指摘したように、過去数年に人手不足が深刻化する中、それが生産性上昇を促す効果は、未だ顕著には確認できていない。また、失業率が一定の水準を下回る、あるいは需給ギャップが一定水準を超えて改善すると、賃金・物価上昇率が俄かに高まるといった現象は、過去には顕著に確認されていない。 需給ギャップと消費者物価(除く生鮮食品・エネルギー)の前年比(1年遅れ)ではなく、前年比の前年差、つまり消費者物価上昇率の加速度との関係をプロットしても、両者は無相関である(図表2)。フリップス曲線は常に様々な要因によって常に変化し続けるとは言え、それでも需給ギャップと消費者物価上昇率との間には、線形の関係が見られるのである(図表1)。


人手不足深刻化が成長期待を押し下げ、賃金・物価上昇率を抑制する可能性も

これも「働き方改革と人手不足深刻化の功罪(2017年7月26日付)」で指摘した点であるが、人手不足が深刻化することに伴い、経済活動が供給面から制約を受けることを強く意識した企業が、先行きの成長期待をむしろ下げてしまう可能性が否定できない。その場合には既に述べたような経路を辿って、賃金・物価上昇率をむしろ抑制してしまう可能性があるだろう。

こうした点を踏まえると、当面、人手不足がさらに進み、需給ギャップが一段と改善するとしても、成長期待が容易に高まらない環境の下では、賃金・物価上昇率が急速に高まるといった事態は想定し難く、物価上昇率が大方の予想を下振れ続ける可能性が高いと見ておきたい。

Writer’s Profile

木内登英Takahide Kiuchi

金融ITイノベーション事業本部
エグゼクティブ・エコノミスト
専門:内外経済・金融

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