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黒田総裁のジャクソンホールでの講演-Re-Anchoring

2016年08月29日

はじめに

「Resilientな金融政策の枠組みの設計」というカンザス連銀主催のコンファレンスのテーマは、先進国の中でも日本が最も大きな貢献をなしうる内容であるだけでなく、MPMにおける「総括的検証」と密接に関連する論点を含んでいる。

そこで、9月MPMの展望も含めて、今回の黒田総裁の講演テキストの内容を検討したい。

非伝統的政策の常態化

講演の冒頭で黒田総裁は、日本の過去20年の経験-継続的デフレ、潜在成長率の低下、数回の金融危機、急速な高齢化と労働力の減少による構造問題-に照らすと、長期的にみて、低インフレと低成長が並存する可能性が高いとの見方を強調した。講演テキストからは、これが先進国全体に該当するかどうか判然としないが、少なくとも日本に言及したものと理解できる。結果として、黒田総裁は、伝統的な金融政策のresiliencyは既に著しく毀損していることを確認した。

その上で黒田総裁は、緩やかだが継続的なデフレを克服するために開始したQQEが、①できるだけ早期に2%のインフレ目標を達成するという明確で強力なコミットメントを伴う、②大量の国債買入れによってイールドカーブ全体に下方圧力を加える、という点に特徴があることを確認した。また、①については、大規模な資金供給で裏付けられているとし、人々のデフレ期待を転換し、インフレ期待を引き上げる狙いがあったことを説明した。

これらを踏まえれば、「総括的検証」では、長期にわたる低インフレと低成長に対してまさにresilientな仕組みを考えることが主題になるものと推察される。

インフレ期待のre-anchoring

講演の本論の前半で、黒田総裁はインフレ期待の問題を取り上げた。まず、2014年夏以降の原油価格の下落が日米の長期(6~10年)のインフレ期待-サーベイベース(日本はConsensus Forecast、米国はフィラデルフィア連銀のSPF)の指標-に与えた影響を比較し、米国は安定していたが日本は下落したことを指摘した。加えてインフレ率(CPI総合)も、米国では早期に回復したのに対し、日本ではその後も低位になっていることを説明した。

一時的と考えられる原油価格下落が、インフレ期待に異なる影響を与えた点について、黒田総裁はインフレ期待が2%付近にアンカーされているか否かの相違があると指摘した。実際、日本では、上記の指標で見た場合、1990年中盤以降、インフレ期待は2%を下回り続けていることを付言した。

その上で、黒田総裁は、完全情報下での合理的なインフレ期待形成モデルは有用なベンチマークを与えるとした上で、実際は、企業や家計が情報をそう頻繁には更新しない可能性があると指摘した。そして、情報更新にコストを要するのであれば、こうした行動も非合理的ではないと主張し、期待形成にadaptiveな面があることを示唆した。

併せて、黒田総裁は1990年代以降に日本のCPIインフレ率が時折マイナスに転ずるなどゼロ近傍で推移し、長期インフレ率も変動を伴いつつ下落したことを確認した。そして、こうしたインフレ期待の不安定性が様々なショックの影響を拡大したり、政策効果を減殺したと主張した。これらの分析から得られる結論として、黒田総裁は、resilientな金融政策の枠組みにとって、インフレ期待を目標近辺にアンカーすることが重要な前提であることを強調した。

こうした分析には様々な議論も可能であろう。例えば、2014年の日本では消費税率引上げによって総需要が打撃を受けていたことも事実であり、これが実際のインフレ率ともにインフレ期待を押し下げていたことは考えられる。より長期的にも、名目為替レートが増価し続けたことの影響をどう考えるかという論点もあろう。もちろん、名目での円高は内外のインフレ率格差を反映したに過ぎない面はあり、その意味では循環論法になる。ただし、名目為替レートに関する期待がインフレ率格差以外の要因によって形成された可能性をどう考えるかという点は残る。

ただし、そうした議論を考慮しても、我々の長期インフレ期待に根強く下向きの力が働いており、それが長期に亘る低成長や低インフレのためであるという基本的な主張は、少なくとも国内で広く共有されている。その意味では、「総括的検証」もインフレ期待のre-anchoringという講演タイトルそのものを目指すものと理解できる。もっとも、インフレ期待がadaptiveであるだけに、期待を引き上げるための手段が上記①のような大量の資金供給であり続けるのかどうかは議論となりうるはずである。

マイナス金利の波及効果

講演の本論の後半では、黒田総裁はマイナス金利政策の波及効果を取り上げた。なかでも、長期~超長期の国債利回りが顕著に低下したことで、超長期の社債発行など企業の資金需要を刺激したほか、家計の住宅ローン需要も喚起したことを強調した。

その上で、複数の中央銀行がマイナス金利政策を効果的に運営しており、政策金利の名目ゼロ制約は克服しがたいものでなくなったとしたほか、現金保有コストによる制約はあるが、現在の日銀の政策金利は下限からかなり遠いと説明した。この点は、マイナス金利政策に関する「総括的検証」の内容を考える上で、当然ながら重要なメッセージである。

この間、日銀によるマイナス金利政策の導入が、QQE自体の導入や欧州の例に比べて国債のイールドカーブ全体を顕著に引き下げた理由については、議論の余地があるとしたほか、理論的には、長期のインフレ期待が改善することで長期の国債利回りがむしろ上昇することもありうる点を指摘した。

その上で黒田総裁は、日本で生じた国債のイールドカーブのbull-flatteningは、市場が日銀による強力な金融緩和が長期に亘って継続すると予想し、潜在的な政策金利がそれまでの政策金利より低いと仮定すれば、説得的な解釈が得られるとした。つまり、マイナス金利政策の導入による名目ゼロ制約の除去によって、潜在的な政策金利が将来の期待に新たなに織り込まれた訳である。

こうした仮説は既に議論されており、必ずしも新しい内容ではない。ただ、欧州の先例と比較した場合も、なぜ、日本市場は強力な金融緩和が長期にわたって続くと予想するのかが議論として残る。黒田総裁の講演内容に沿って考えれば、それは長期にわたる低成長や低インフレの履歴効果であるとの推論に至るが、日本のみに該当するのか、それとも講演の冒頭で触れたように、米欧は単にこれから経験するだけなのか、現時点ではわからない。

Writer’s Profile

井上哲也Tetsuya Inoue

金融イノベーション研究部
主席研究員
専門:中央銀行、国際金融

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