1. HOME
  2. ナレッジ&インサイト
  3. 研究員の時事解説
  4. 井上哲也のReview on Central Banking
  5. 金融政策における集団的決定の再検討

金融政策における集団的決定の再検討

2015年08月13日

はじめに

昨日のBOEに関するコラムで参照した"Warsh Report"で議論されているように、金融政策を議論し決定するための委員会を設置することは中央銀行にとってglobal standardとなっている。しかし、実際には世界的な金融危機を経て、その意味合いには様々な変化が生じている。そこで、本コラムでは先進国を念頭に置きながら、こうした集団的決定について改めて検討したい。

集団的決定の意義

筆者が数年前に翻訳の機会をいただいた「あすにかける」(Howard DaviesとDavid Greenの共著)の第6章は、金融政策の決定に関する枠組みとして、集団的決定の意義を論じている。つまり、総裁個人の嗜好によって生ずるバイアスを回避するという消極的な理由と、多様な知見や情報を持ち寄るという積極的な理由である。なお、後者に関してはブラインダーによる有名な実験の結果を引用しているが、筆者は"Warsh Report"がいまだに同じ例を引用したことに驚いた。

もちろん、「あすにかける」でも指摘されたように、金融政策を決定する委員会の人数を増やし続けると、効率的な決定が難しくなるといった副作用も大きくなる。それでも、総裁個人でなく委員会によって集団的決定を行うこと自体の意義に対する異論はみられないし、実際、同書が引用している様々なサーベイの結果をみても、世界の圧倒的多数の中央銀行が委員会形式での意思決定を行っている訳である。

金融危機とポスト・クライシスの下での政策決定

もっとも、世界的な金融危機の下での先進国の政策決定においては、こうした集団的決定の色彩が後退したことも事実である。つまり、深刻な金融危機に見舞われた米欧では、市場を含む経済主体がバーナンキ議長やドラギ総裁のような中央銀行のHeadを「スター」としてまつり上げ、その一挙手一投足に即して行動を変化させる事態が生じた訳である。

これは、中央銀行が「非伝統的金融政策」を多用せざるを得ず、その効果が様々なコミットメントに対する信認に依存する状況では止むを得ない事態ではあった。危機の下では、中央銀行のHeadが「委員会の総意によって政策を運営する」という原理に拘るよりも、多少の異論に目をつぶって「whatever it takes」と言い放つことが求められ、不安心理の沈静化に寄与したことは否定できない。

そもそも、金融危機の下で、市場を含む経済主体が、中央銀行の総裁や議長に限らず公的当局全般に「強いリーダーシップ」を期待し、かつそれに依存しようとすることはむしろ自然であるし、平時の原則による反論を試みても空しいことになる。

しかし、金融危機の収束とともに元に戻ると思われたこうした傾向は、金融経済の回復期であるポスト・クライシスの下でも、形を変えつつも残っているようにみえる。中央銀行の総裁や議長による政策形成に対する影響力が委員会との関係で相対的に強いと理解される理由としては、ポスト・クライシスの下での金融政策の運営において、平時に比べて、他の政策当局との連携の重要性が高い点を挙げることができる。

多くの先進国では、危機の後遺症として大きな財政債務を抱えている結果、マクロ裁量政策の中で金融政策への期待や負担が大きくなっている。この点は、政府による経済政策-特に景気刺激策-と金融政策との距離感を縮めることになる。あるいは、先進国が多用している「量的緩和」は「結果として」為替相場に影響するだけに、政府の通貨当局との連携も重要となる。

さらに、米欧では金融危機後に中央銀行が金融システム安定の役割を拡大した結果、金融政策の運営が金融システムに与える影響を適切に考慮しコントロールする観点からも、金融監督当局との連携が求められる。

このように、金融政策を他の政策当局との連携の下で運営することへの要請が高まる下では、円滑な政策運営を行う上で、中央銀行の代表者としての議長や総裁にある種の裁量を与えることが望ましいことになる。これを中央銀行だけに焦点を当ててみれば、委員会との相対関係で総裁や議長による影響力が引続き強いように見えるであろう。

こうした政策決定の特性は、金融経済が成長経路に復していく中で解消し、再び集団的決定へと回帰するだろうか。おそらく長い目で見ればそうなることが期待される。

先に見た集団的決定が重要である二つの理由(総裁個人のバイアスの回避と多様な知見や情報の意義)そのものは変わらず重要である。むしろ、後者に関しては、中央銀行が政策判断を下す上で、金融危機前よりもはるかに多くのことを考慮せざるを得なくなっただけに、一層重要性を増していくことが予想される。

それでも、時間的視野を「当面」に絞るとすれば、委員会による集団的決定よりも総裁や議長の判断が相対的に重要である局面は続くと考えることもできる。

特に、先進国の中央銀行が順次「正常化」の局面に入ることは、こうした傾向をサポートしやすい面がある。つまり、財政健全化がなかなか進まない中で、中央銀行が「正常化」を進める上では-なかでも、政策金利の「正常化」よりもバランスシートの「正常化」の上では-財政政策(国債管理政策)との連携が重要となることは言うまでもない。

あるいは、金融システムや金融市場の安定を維持しつつ「正常化」を進めるには、金融監督当局との連携が引続き重要であるだけでなく、ある種のコミットメントの活用も必要となりうるだけに、その信認を維持する上では、集団的決定の重視へと早期に回帰するより、総裁や議長の「カリスマ性」を活用し続ける方が良いとの判断も成り立ちうる。

透明性との関係

このように、中央銀行の政策決定における集団的な性格が少なくとも中期的に後退していることは、金融政策の透明性における課題を浮き彫りにしつつある。

つまり、実際には総裁や議長による政策決定への影響力が大きくなっているにも関わらず、市場を含む外部の観察者が、委員会における票決の結果や、委員メンバーによる講演などの意見表明に基づいて政策論の「重心」を推し量り、これに沿って政策運営の方向性を予想するようであれば、実際の政策決定とのギャップに直面するリスクが生じうる。

実際、近年の先進国による政策運営に関しては、市場を含む外部から見ると「突如として政策変更のコンセンサスが生じた」印象を受けるケースが散見される。加えて、市場では「正常化」の着手に近い位置にある中央銀行の政策運営に関して、同様なリスクが顕在化するのではないかとの懸念もみられる。

この点については、「量的・質的金融緩和」も興味深い事例を提供している。つまり、この政策については、アベノミクスの「第一の矢」としての位置づけに象徴されるように、幅広い経済政策の一環として運営されているとの理解が存在する。この点は先般の記者会見で黒田総裁が来年からの金融政策決定の枠組みの変更について説明した際にも確認された。

つまり、多くの記者は「金融政策決定会合」の開催回数が減り、総裁記者会見も減ることに関し、透明性の低下に対する懸念を表明したのであるが、その理由を総裁自身の説明を聞く機会が減ることに求めた。これに対し黒田総裁は、記者会見の趣旨が政策委員会の議長として全体の議論を代弁することにあるという「正論」を述べたことで、議論がかみ合わない印象を与えた。

透明性との関係については、中央銀行の総裁や議長の視点に立った場合、逆な方向の問題を指摘することもできる。例えば、上記のように中央銀行がある種のコミットメントを活用し続けることが必要である場合に、多くの委員会メンバーがこれに対する異論を様々な形で表明するとすれば、政策効果の毀損に繋がりうるという意味で頭の痛い問題になる。

現実的な対応

長い目で見れば、先進国の中央銀行による政策も集団的決定に即したものに回帰し、それを前提に構築された透明性を含む様々な仕組みもきちんと機能するようになるであろう。

しかし、中央銀行も市場を含む経済主体も、これから迎える「正常化」の過程を含め、当面はそれとは異なる特性を持った政策決定のあり方と付き合うことが不可避であれば、リスクやコストを最小限に抑える観点から、現実的な対応を探ることも重要になる。

シニカルに見えるかもしれないがシンプルな対応は、市場を含む外部の観察者が冷静に現実を受け止めることである。つまり、中央銀行による金融政策は中央銀行内だけで決まる訳ではなく、様々な政策当局との連携の中で形成される面が強いという理解をもつことである。そうなれば、市場を含む経済主体が先に見たような誤解に陥るリスクは抑制される。

しかし、実際にはこれも容易ではない。市場を含む外部の観察者は、中央銀行による情報や意見の発信だけでなく、様々な政策当局による情報や意見にまで注意を向けなければ、金融政策の方向性を正しく理解できなくなるからである。実際、先進国であっても市場を含む経済主体にとっては、中央銀行が発信する情報や意見だけでも十分消化できない局面が散見されるだけに、これを現実的な対応と呼ぶことはやはり憚られる。

そこで外部の観察者の負担を減らそうとして、中央銀行が、関連する政策当局の情報や意見も反映した上で、自らの情報や意見を発信する対応も考えられるが、それでは現状とほとんど変わらず、そもそも検討や改革を試みた意味が失われる。

そこで、現実性を意識しながら、先進国の中央銀行による現状の枠組みを前提に何ができるか検討し直すことにしたい。

検討の出発点として、集団的決定の意義としてDaviesとGreenが整理した二点(総裁の嗜好によるバイアスの回避と多様な情報や意見の有用性)は、ポスト・クライシスであれ、「正常化」の局面であれ、一貫して重要であることに変わりはない点を確認したい。実際、後者は、「正常化」を展望するとむしろ重要になっている。

一方で、これら二点を突き詰めると、集団的決定が本当に重要であるのは「決定に至る過程」であることも明らかになってくる。これに対し、決定の結果に関して多様な意見が発信されることの意義は、本コラムで見たようにその時々の金融経済や政策の環境によって変化しうる面がある。

後者の点に関するポイントの一つは票決の扱いである。「あすにかける」によれば、BOEが最初にMPCの票決を公表した際には、①委員個人の説明責任の遂行、②政策の方向性に関する市場との対話の円滑化、といった意義が強調されたとのことである。

このうち②の実例としては、BOE自身のケースだけでなく、日銀が2006年に「量的緩和」を解除するに至る際の票決なども想起される。もっとも、先に見たように、ポスト・クライシスあるいは「正常化」を展望する現在の状況では、票決の推移をフォローすることが、その後の実際の政策決定を予想する上で必ずしも有効でないケースが実際に生じている。

一方、①に関しても、少なくとも先進国の場合は議事要旨(Minutes)の内容が充実していることで、説明責任の遂行において、投票行動に依存する必要性は低下している。つまり、議事要旨が、実際の政策判断に繋がった議論や意見だけでなく、反論や異論も含めて比較的詳細な記述を行っているので、これらの情報と、各委員による講演等での意見表明を付き合わせれば、どの委員が委員会でどのような主張をしたかを概ね把握しうるからである。

"Warsh Report"も示唆するように、金融政策の透明性にとっては、反論や異論も委員会で適切に取り上げられ、かつ議論の末に一定の合理性を持って不採択となったことを明らかにすることも重要であるが、この点も議事要旨の充実によって概ねカバーすることが可能と考えられる。

これらを踏まえると、現時点で票決を公表することの意義は当初に比べて大きく変化しているようにみえる。

イエレン議長の挑戦

先進国の中で「正常化」に最も近いとされるFRBのイエレン議長は、7月中旬の講演で、自らの経済見通しがFOMCメンバーのコンセンサスに近いと述べた。かねて、イエレン議長をdovishと理解してきた市場には相応のサプライズとなったが、その意味合いには二つの解釈がありうる。

つまり、①イエレン議長はこれまで慎重であった見通しを上方修正した、あるいは②イエレン議長は中央銀行の伝統的practiceに立ち返り、委員会における多数派を常にendorseするスタンスになった、という二つである。もしも②であったとすれば、FRBは集団的決定への回帰を目指していると考えることができ、そうなれば本コラムで見てきた透明性を巡る課題も大きく逃れる可能性が拓ける。

もっとも、市場を含む外部の観察者が、FRBについてバーナンキ議長のような政策決定のイメージを多少なりとも引きずっているとすれば、逆な意味でコミュニケーションを難しくすることも考えられる。また、FRBにとって劣らず重要なのは、「正常化」の過程で何らかのコミットメントを使用しないのか、使用する場合に集団的決定と整合性を維持しうるかという課題であろう。

長期的に集団的決定に即した政策判断に回帰することは確かに望ましいことであるし、先進国の中央銀行に残された大切な宿題である。FRBが利上げ開始とともにそれを取り戻すのであれば、FRBはより本質的な意味でも「正常化」に着手したと解釈することができる。

Writer’s Profile

井上哲也Tetsuya Inoue

金融イノベーション研究部
主席研究員
専門:中央銀行、国際金融

この執筆者の他の記事

井上哲也の他の記事一覧

このページを見た人はこんなページも見ています