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スイスの中央銀行による為替ペッグ政策の停止

2015年01月19日

はじめに

スイスの中央銀行(SNB)がEUR/CHFのペッグ政策を突然停止したことに伴い、昨日来、国際金融市場がやや動揺しているが、SNBの政策をしばしば取上げてきた本コラムでは、今回の政策判断をいくつか異なる角度から検討したい。その際は、SNBによるマイナス金利の導入に関する本コラム(2014年12月22日付)も適宜ご参照されたい。

背景について

政策変更の背景を考える上では、第一に、昨年12月18日のマイナス金利導入(ただし表明のみ)が所期の効果を挙げ得なかった点に注目すべきである。つまり、EUR/CHFは防衛線であった1.2000から1.2040へ僅かに減価したが、その水準も維持できず、年初以降は1.2000近辺で推移してきた。

第二に、SNBのバランスシートを巡る懸念にも留意する必要がある。前回のコラムで触れたように、議会は、為替ペッグのための「無制限介入」の結果としてSNBが抱える巨額の外貨準備が、CHFが増価する度に大きな損失を生じたことに懸念を有している。SNBに一定比率の金保有を義務付ける法案が(否決されたが)国民投票まで行ったことはその象徴である。

SNB自身がこの点をどう考えていたかは必ずしも明確でないし、SNBの資産内容が悪化しても、直ちにSNBによる金融政策やCHFの信認が喪失した訳でないことも興味深い。この問題のコストは、前回のコラムで示唆したように、本当は別なところにあるように見える。

米欧では、SNBが「無制限介入」に伴う金融システム面の副作用を嫌気したことが今回の政策変更の背景にあるとの指摘がある。確かに、欧州債務危機以降は、スイスに対する「質への逃避」によって大都市部を中心に住宅価格の上昇が続いてきた。SNBも、FSRで警鐘を鳴らし、ミクロ(LTV等)とマクロ(CCCB)のプルーデンス政策を発動してきた訳であり、その意味で、「無制限介入」による過度な金融緩和を望まないことは事実である。

もっとも、「無制限介入」を早々に止めても、(昨日来の相場が示すように)CHFに大きな上昇圧力が生じたであろうし、為替の先高期待が海外投資家による資金流入を招いたはずである。つまり、スイスの住宅価格には、「無制限介入」の実施如何に拘わらず上昇圧力がかかったはずであり、この問題に対しては、第一義的にはプルーデンス政策で対処すべきである。

今回の政策変更に関しては、ECBが1月の政策理事会で「QE」を導入することに備えたとの解釈もみられる。確かに、「QE」の内容がEUR/CHFに大きな影響を持つことは当然である。ただし、12月18日に決定されたマイナス金利の実施日がそもそもECB政策理事会の当日(1月22日)にセットされていたことを考えれば、SNBにとって新たな「懸念材料」とは言えない。

その上で考えられるのは、SNBが、(1)ECBの「QE」に係る投機的なCHF買い圧力が、12月時点の想定より大きいと判断した、あるいは、(2)ECBの「QE」自体が12月時点の想定より大規模になると判断した、のいずれかである。実際、市場では昨日来のEURの軟調化を受けて、(2)を推測する声も聞かれる。

残念ながら、この点もSNBがどう考えていたか外部からはわからない。また、投機的なCHF買いが12月の想定以上に強いとしても、それは「QE」に対する思惑だけでなく、原油価格の下落が加速したことに伴う「質への逃避」-市場が意識するロシア資金の「退避」を含む-による面もあろう。これらを認めた上ではあるが、筆者には、SNBと市場とが「思惑」のスパイラルに引きこまれているようにも感じられる。

コミュニケーションについて

今回の政策変更に関しては、市場だけでなくメディア等も含めてSNBによるコミュニケーションを批判しており、残念ながら、それにはもっともな理由が存在する。

前回のコラムで説明したように、SNBは通常は年4回(3月、6月、9月、12月)に政策理事会を開催して金融政策を見直す枠組みを採用している。それにも拘わらず、昨年12/18日の政策変更が定例会合から1週間後の臨時会合で決定されただけでなく、さらに1カ月後の1月15日に再び臨時会合で政策変更を決定した訳である。しかも、昨年12/18日に決定されたマイナス金利の実施日は1月22日とされていたので、25bpというレートは実際に適用されることなく、今回(1月15日)の決定によって75bpに拡大された訳である。

2008年のような金融危機の渦中では、こうした対応も歓迎されたであろうし、SNBにとって年末年初のCHF買い圧力が想定を大きく上回るものだった可能性はある。ただ、少なくとも、SNBがCHFの上昇圧力をどう評価するか、「無制限介入」によるEUR/CHFのペッグのコストベネフィットをどうみるかについて、市場を含む外部との間で理解が十分共有されていなかったことは否定できない。

特に後者に関しては、前回の政策変更(12月18日)の際にも、SNBがペッグ政策を維持するためにマイナス金利を導入するとの説明を行っただけに、SNBのコミットメントを信用した市場関係者を、突然のペッグ政策停止によって結果的に裏切ることになった点の重みは小さくないように見える。

結果論にはなるが、例えば、政策金利や「QE」におけるフォワード・ガイダンスのように、為替ペッグについても何らかの「停止条件」を事前に示すことができれば、こうした事態に陥らなかった可能性もある。ただ、今回のSNBにとって、それがインフレ率のように数値化しうるものではなく、国内金融システムの安定(住宅バブルの抑制)のような抽象的内容だったのであれば、技術的に困難となる。

SNBによるコミュニケーションに関して、もう一つ興味深く思ったのは、IMFのラガード専務理事によるコメントである。つまり、CNBCで繰返し配信されたインタビューの中で、ラガード氏は、今回のペッグ政策停止についてIMFに事前通告がなかった点に不快感を示した訳である。

IMFの立場からは、SNBによるペッグ政策の運営は「為替政策」であり、その運営は関係国の通貨に影響を有するだけに、IMFとして当然に関与すべき案件となる。一方、SNBにとっては、1月15日のジョルダン総裁の声明文が示す通り、ペッグ政策は国内経済のための「金融政策」である。主要国による金融政策の変更について、関係国が事前に共有すべきかどうかは微妙であるが、IMFとの事前共有の必要性はややレベルの異なる問題であることも否めない。

ラガード氏が提起した点は、スイスだけでなくシンガポールや香港のように為替レートを明示的に金融政策に活用してきた「small open economy」にとっては決して新たな問題ではない。むしろ、長期金利までが極めて低位になった下で、為替レートを意識した形で量的緩和を運営せざるを得ない「large economy」にとっては新たな問題を示唆しているように見える。

Writer’s Profile

井上哲也Tetsuya Inoue

金融イノベーション研究部
主席研究員
専門:中央銀行、国際金融

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注目ワード : マイナス金利

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