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BOEのカーニー総裁の記者会見(Inflation Report)-Labor economics

2014年08月14日

はじめに

イングランド銀行(BOE)による今回のInflation Report(IR)では、2016年にかけてのGDP成長率見通しとCPIインフレ率見通しの双方ともに、前回(5月)とほとんど不変に維持した。

ただし、カーニー総裁にとっては、住宅価格の上昇に歯止めが掛るという望ましい動きが生じた一方、雇用と失業率が堅調に好転したにも拘わらず、賃金上昇が顕著に鈍化したという奇妙な状況で、適切な利上げのパスを考えるという難題が台頭してきた。

そこで本コラムでは、IRに示されたBOEの見解とカーニー総裁による会見での説明をもとに、労働市場の動向とそのインプリケーションを中心に議論したい。

経済見通し

今回のIRで示された見通しを前回(5月)と比較すると、GDP成長率については、2014年が3.4%→3.5%、2015年が2.9%→3.0%と僅かに上方修正されている。一方、CPIインフレ率については、2014年が1.8%→1.9%、2015年が1.8%→1.7%とやはり僅かな変更が加えられている。また、IR(38~45ページ)では、(1)海外経済は緩やかに拡大、(2)英国の生産性と実質所得も緩やかに回復、(3)英国経済の余剰(slack)はより緩やかなペースで解消、(4)賃金や企業収益の伸びはインフレ目標と整合的、の4点を主要な前提として示している。

これらを見ると、米欧の主要メディアがカーニー総裁の会見を一様に"dovish"と表現していることを意外に思われるかもしれない。その理由に関し、本日の記者会見については二つの点を指摘できる。第一に海外経済の先行きについて慎重な見方を示した点である。つまり、地政学的リスクの高まりに加えて、英国にとって重要な経済地域であるユーロ圏の動向について、ECBによる政策の効果も含めてダウンサイドへの懸念を示唆した。第二に、利上げのタイミングが不変であることを示唆した点である。つまり、英国経済がGDP成長率とインフレ率のバランスのとれた形で回復し、これに伴って失業率が6.5%を割り込む状況にあるのに、利上げのタイミングに関する市場見通しを、BOEによるインフレ目標の達成と整合的と評することで、事実上endorseした。

この第二の点こそが、BOEによる今後の金融政策を考える上での難問である労働市場の理解に関わっている訳である。

労働市場の量と価格

現在の労働市場の特徴は、カーニー総裁が言うように量と価格が整合的な動きになっていないことである。つまり、量については、上記のように失業率が低下すると同時に、労働参加率は過去1年で0.5%ポイントも上昇し、約64%と危機前を上回る水準に上昇している。これに対し、価格つまり賃金については、平均時給でみると、本年第1四半期は2%増加したのに対し、第2四半期はほぼゼロとなった模様である(ちなみに、IRによれば、危機後の平均は1.7%)。

これらは、経済分析の観点で非整合的というだけでなく、重要な政策的含意を持つ。例えば、構造的な理由で賃金上昇が抑制されているならば、景気が拡大しても余裕を持って利上げしうる。一方、インフレが2%近辺で推移するのに名目賃金はそれほど上昇しなければ、実質購買力の低下が景気拡大を抑制するリスクもある。あるいは、実質賃金の伸び悩みが生産性上昇の鈍化と一体なのであれば、潜在成長率が低下しつつあることを示唆するだけに、中立的な政策金利は従来より低くて良いことになる。

それだけに、今回のIRもカーニー総裁の会見も、その多くの部分が労働市場の理解を巡る議論に割かれた訳である。

今回のIRはこの問題を理解する上でのヒントを数多く提示している。例えば、足許の雇用や労働参加率の上昇が50歳以上の層で顕著であるという事実を示した上で、その理由が、年金改革(受給年齢の実質的引上げ)や金融危機に伴う金融資産の価値減少である可能性が高いとの仮説を提示している。

この点は、IRが示すように短期失業者だけでなく、長期失業者における失業率も相応に改善していることや、足許で創出された雇用に占める「low skilled job」の比率が上昇している点と併せて考えると、一層興味深い。つまり、長期失業者が賃金の低い「low skilled labor」を積極的に受容しているとすれば、労働市場の量と価格の乖離に直接的に寄与することになる。

生産性上昇率も、実際にBOEの予想を大きく下回る動きとなっている。つまり、前回(5月のIR)では年率1%程度と見込んでいたが、実際は、第1四半期は半分程度、第2四半期に至ってはマイナスに転じたとされている。この点は、マクロ的にはGDPの伸び以上に雇用が増えたことを意味し、上記のような仮説が関連する。

ただ、今回の回復に際して特徴的なのは、ミクロのレベルでも過剰な雇用が生じている可能性である。例えば、今回のIRは、失業率などからみた労働需給がタイト化しているのに、転職率が英国としては極めて低位に抑制されていることを示している。また、前々回のIRでは、金融危機にも拘わらず、英国企業の破綻件数が比較的抑制されていたことを示していた。

英国の専門家の中には、今回の金融危機後には英国で日本と同様な労働市場の調整-雇用の確保を優先する代わりに賃金を抑制する-が生じたとの見方を示す向きもある。一方で、今回のIRのように、実質賃金が抑制されたため、企業レベルでもマクロレベルでも設備投資よりも新規雇用が優先された-資本と労働の代替が進行した-との理解も可能であろう。

BOEとしては、これらの解釈を示した上で、マクロ的な労働資源のslackは概ね吸収されたので、今後は雇用の拡大に沿って名目賃金も緩やかに上昇し、同時に景気拡大に沿って労働生産性の上昇率も高まるとの見方を維持した。それが正しければ、BOEはジレンマに陥ることなく、予て想定されていたように緩やかな利上げを進めることができる。

ただ、これまでの議論を予見なく眺めると、現在の奇妙な労働市場を現出している理由の中には、金融危機に伴ういわば構造的とも言うべき問題が散在していることもわかる。それだけに、BOEが展望する通りに金融政策の「正常化」が進むかどうかには、依然として相応の不透明性が残っている。

おわりに

「金融市場パネル」5周年コンファレンスでも論点の一つとなったように、金融経済に不確実性が展望される場合に、中央銀行がそれをどう伝えるかは難しい課題である。「私の見通しを信じてついてきてほしい」と訴える選択肢がある一方で、カーニー総裁のBOEは、様々な可能性を示した上で、政策のcontingencyを提示するという、最近の先進諸国にみられなかった道を取ろうとしているようにも見える。

Writer’s Profile

井上哲也Tetsuya Inoue

金融イノベーション研究部
主席研究員
専門:中央銀行、国際金融

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