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トリシェ総裁の記者会見から見えたこと(その3)

2011年09月09日

はじめに

ECBは、一部の予想に反して金融政策の現状維持を決めたが、トリシェ総裁の記者会見にはいくつか興味深い論点が含まれていたので、いつものように検討してみることとしよう。

ポイント1:不確実性の高まりへの対応

今回の政策理事会では、経済・物価の見通しの定例見直しが取り上げられ、ユーロ圏のGDP成長率見通しは、2011年が1.4~1.8%と6月時点に比べてレンジが狭められたほか、2012年については0.4~2.2%と下方修正された。こうした見通しの実質的な下方修正が今回の最重要なポイントであるが、本稿では別の角度からそのインプリケーションを考えたい。

第一に、コミュニケーション・ポリシーである。冒頭に質問したBloombergの記者を含めて誤解が伺われたように、この見通しはECBのスタッフによるもので、政策理事会による見通しではない。仮に、各NCBの総裁を含む政策理事会のメンバーが、母国だけでなくユーロ圏全体の見通しを示し、それを纏めようとすれば、分析が重複して非効率であるのみならず、集約の負担も大きいであろう。ただ、政策決定は経済や物価の見通しに基づいて行われるはずであるし、政策理事会としての見通しは声明文に示されるといっても、その内容は抽象的な文章表現になる。ECBは、FRBや日銀がFOMCやMPMのメンバーによる見通しを公表していることも踏まえ、見通しのあり方を再検討しても良いように思う。

第二に、高い不確実性への対応のあり方である。今回のトリシェ総裁の記者会見のみならず、Bernanke議長の講演(8/26日)や白川総裁の記者会見(9/7日)も、ともに経済の先行きの不確実性を強調している。先進諸国は官民双方に蓄積した巨額の債務の下にあるという、いわば「病み上がり」であるだけに、ショックへの耐性が十分でなく、家計や企業のセンチメントも不安定であるので、不確実性が極めて高くなることは避けがたい。

経済のメインシナリオを下方に見直す場合、中央銀行はその度合いに応じて金融緩和を行うことになろう。これに対し、先行きに不確実性が高まった場合の選択肢としては、「保険」という位置づけで金融緩和をしておくことが挙げられる。過去にも少なからぬ実例があるし、まだ政策金利が1.5%も残っている ECBにとって、実は採用可能な選択肢でもある。一方、事実上のゼロ金利下にある中央銀行の対応はより難しいが、活路が閉ざされている訳でもない。一つの選択肢として、シナリオのdownsideが実現した場合に効果を生むようなコミットメントをすることが考えられる。銀行規制に関わる読者は、こうした政策対応のcontingentな性格を、ULに対応するための自己資本という考え方と似ていると理解されるかもしれない。こうしたコミットメントの代表例は、景気や物価に条件付けた「時間軸政策」である。経済情勢が悪化すれば、金融緩和の継続期間に対する予想が自動的に延長することで、中長期金利を抑制し、より強い緩和効果を発揮するからである。

ポイント2:為替介入の妥当性

日本の関係者にとっては、トリシェ総裁が、スイスによる対ユーロペッグと無制限介入を事実上黙認したことをどう説明するかという点も大きな関心事であったと思われる。通常、為替の問題は日本人の記者が取り上げることが多いのだが、今回は、7番目に質問したWSJの記者に先を越されてしまった。それでも、その趣旨は、8月の日本の介入の際には、為替介入はmultilateralな判断に基づくべきであるとして批判的な姿勢を示唆したのに、今回のスイスによる介入に理解を示したのはなぜか、というものであって、聞きたいことをしっかり代弁してくれたように思う。

トリシェ総裁の回答は、日本は世界経済の主要国であるのに対し、スイスは小国であり、しかもEMU諸国に囲まれているので全く条件が違うというものであった。実際、スイスのGDPの約5割が輸出で、そのうち約6割がユーロ圏向け(これはユーロ圏諸国の平均とほぼ同じ)であることを考えても、スイスが small open economyであるだけでなく、経済的にはユーロ圏とかなり一体化していることは明らかである。逆に言えば、仮に経済条件だけを考えれば、ユーロ圏諸国との関係が密接で、しかもSGPを余裕で満たしているスイス(2010年の財政収支と債務残高の対GDP比率は各々+0.5%と40.2%)こそ、ユーロ圏の加盟国であるべきと言えるくらいである。

ただ、これらの事実は否定しがたいとしても、スイスフランは数少ない主要通貨の一角であり、今回のペッグが世界の通貨政策に持ちうる影響は小さくないようにみえる。トリシェ総裁は、10番目の記者がEMUの為替政策への影響を質問したのに対しても、スイスが自らの責任で自らの経済政策を行ったものと理解するという、ECBの声明文(9/6日)に即した回答を示した。しかし、なし崩し的に為替コントロールが広がる事態を避けるには、前月の記者会見でトリシェ総裁が強調したようにmultilateralな場で、スイスの問題に限らず、通貨政策のルールを議論しておくことが望ましいように思う。

ポイント3:中央銀行のマンデート

普段はどんな質問にも粘り強く対応するトリシェ総裁が、今回の記者会見では、声が裏返るほど上気し熱弁をふるった局面があった。12番目の記者が、ECB は役割を果たしていないというドイツの政治家や市場による批判についてコメントを求めた際である(ECBのwebcastでは49分付近から始まるのでぜひご覧いただきたい)。

トリシェ総裁は、ECBにユーロ圏の物価安定というマンデートを課したのは、他ならぬ政治家自身である点を強調した上で、ドイツをみても、ECBが強固な独立性の下で実施した金融政策によって、ブンデスバンク時代よりも物価のパフォーマンスが良好であることは評価されるべきと指摘した。その上で、かつて独仏伊の主要3ヶ国がSGPの条件緩和を求めた点に言及しつつ、債務問題は各国が財政政策を適切に運営しなかったことにあると強く批判した。物価のパフォーマンスはGreat Moderationによる面もあるので、トリシェ総裁が強調した"not by chance"という表現に違和感を持つ向きもあろうが、筆者も、これ以外の議論は至極もっともであって、合理的に反論することは難しいと思う。

ただ、トリシェ総裁の在任期間の間に、ECBに事実上期待される役割が物価安定に止まらない状況が出現してしまったことも明らかである。もちろんこれはユーロ圏に限ったことではない。実際、トリシェ総裁が約7分にわたってふるった熱弁は、Bernanke議長が8月26日にJackson Holeで訴えたことと同じ問題を提起している。

トリシェ総裁の記者会見はECB本部では最終回であった(10月はベルリン)。13番目の記者からこの点の感想を聞かれたトリシェ総裁は、何回もさよなら公演をする積もりはないといって笑いをとっていたが、今回の熱弁で言いたいことを言い尽くしたと思っておられるのかもしれない。ただ、次の総裁が退任する際にも、トリシェ総裁と同じことを熱弁しうるかどうかは、今や誰にもわからない。

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